木霊 (TARUSU)
森林施業研究会ニュ−ズ・レター 
No.32 2006.5.12.
Newsletter of the Forest Management and Research Network


第11回施業研究会シンポジウム

「改めて、林業と自然保護問題を考える」の報告

                              山川 博美(鹿児島大学大学院連合農学研究科)

 我々は、日本における森林伐採問題をあまり知らない世代であろう。森林伐採問題と聞くと熱帯雨林の森林伐採問題を真っ先にイメージしてしまう。シンポジウムのテーマは、「改めて---」であるが、むしろ新鮮な気がした。これは、我々が物心ついたときには、この問題が終結したかのように見えたからだろう。そこで、今回のシンポジウムでは、自然保護活動、林野行政および生態学者といった異なる立場からの林業と自然保護問題についての講演を聴き、真剣にこの問題について考える機会ができた。

 日本自然保護協会の茅野氏は、赤谷プロジェクト(三国山地/赤谷川生物多様性復元計画)の事例を踏まえて、自然保護活動を進めていく上で、地域社会との連携など官民が一体となった組織の必要性を述べられた。また、一方で国有林の在り方について保護区などでは、自然保護といったプラスの側面を持っているが、その外では今もなお伐採が続けられており、国有林の二面性を主張された。これに対して、林野行政に携わってこられた中岡氏(森林総研)は、林業と自然保護は調和するという演題で公演され、自然力(森林の潜在的再生能力)を利用した林業再生を強調され、天然更新の有効性を示された。しかしながら、会場から指摘があったように天然更新には、技術的な課題や明確なゴールが設定されていないように思われ、すべての森林で伐採後の再生が天然更新によって達成されるとは思えない。我々が行っている人工林伐採後の森林再生に関する研究では、天然更新によって比較的早く森林が再生する場合とそうでない場合を示している。生態学者の立場から京都大学名誉教授の河野氏は、日本の自然は世界的にも貴重であり、保護することの重要性、および一度失った自然の修復の難しさを主張され、さらには現在でも日本の貴重な森林が伐採され続けていることを指摘された。また、日本の森林管理において目先の利益だけでなく、長中期的な計画が必要だということを指摘された。

 総合討論では、森林に対する本質的な考えの欠落や技術者の意識の低下が指摘され、今日の森林管理における大きな問題が指摘されたように思えた。また、この問題が目先の利益だけを考えた表面上の技術の先走りの原因になっているように感じた。さらには、森林の機能区分の問題も指摘され、本当の意味でのゾーニングの必要性、さらにゾーニングの後に必要なことは何かを長中期的な計画と合わせて本質的に考えていかなければならないのであろう。林業と自然保護問題は切り離せない問題であり、今後もずっと議論されるテーマである。その場しのぎの一時的な解決の方法ではなく、本質的な視点でこの問題を解決し、今後の森林管理をしていかなくてはならない。また、これらの問題を考えるとき地域社会の存在を無視してはならず、林業(物質生産)と自然保護、そして地域社会がともに考えていくことが必要だろう。

 そこで、我々は次の世代を担うものとして、これまでの森林の歴史や現在の森林管理における問題を受け止め、林業、自然保護、地域社会が共存できる本当の森林管理を模索していかなければならないように感じた。


(写真1)拡大造林により天然林の断片化が進んだ木曽地方の国有林。

<シンポジウムへの意見・感想>

今後に議論したいこと

                              櫃間岳(森林総合研究所・東北支所) 

 様々な立場の話題提供者の講演による問題提起は、私の日頃の漠とした問題認識に具体的な像を与えてくれた。すなわち、森林における木材生産活動と自然保護の対立を焦点に、森林施業の目的を改めて問うという問題提起である。講演後の討論では、ゾーニングという手法の検証、森林の機能区分の見直し、後継者育成のための林学教育といった課題が挙げられ、活発に意見が交わされたと思う。

 しかしながら、問題が複雑なだけに論点が絞りきれず、議論が不足した印象は拭えなかった。(1)森林施業の目的はなにか、という問いからは、新たな問題提起として(2)誰が意思決定にかかわるべきか、(3)森林の価値をどう評価するか、が派生してくると思う。シンポジウムの場では、このような私の疑問を挙げる時間もなかったので、上記3点に関する私の考えを記して今後の議論の発展を期待したい。

(1)森林施業の目的はなにか? 施業の評価手法とは?

 ある地域において自然保護と木材生産が対立する場合は、ゾーニングすなわち目的別の地域設定によって森林を区分する必要があるだろう。茅野氏が指摘したように「生物多様性保全地域の区域外で不適切な森林施業が行なわれている」事例では、地域区分を見直すべきだろう。また、長池氏が指摘したように「地域区分は、一度設定したら決定される固定的なものではなく、ある程度の時間を経て見直される弾力的なものであるべき」だと考える。

 しかし、たとえゾーニングが適切に行なわれても、対立(自然保護と木材生産)が解決するとは限らない。渡邊氏が指摘した通り「森林の機能は単一ではなく複合的なもの」だし、区分された各地域は相互に影響しあうため、目的別に森林を明確に区分して利用することは困難だからである。従って、地域の自然や森林を利用する際には、その地域の広域的な機能の発揮を総合的に考える必要がある。生態系保護地域の区域外ならどんな施業をしてもよいということにはならない。つまり、森林の施業の目的は、その森林を含む広域の土地利用の目的に沿って、総合的に決められるべきである。別の言い方をすれば、森林施業の目的は、その森林を含む広域の土地利用の哲学、すなわち総合的な設計図があってはじめて定まるものと考える。

(2)誰が意思決定にかかわるべきか?

 上述のゾーニングにおいては、スケール(面積や時間の規模)が変わることによって、森林の機能や生態系の価値基準が変わり得ることを指摘したい。河野氏は「日本列島の種多様性は、地球規模の地誌でみると希少なものが多く、そのうちのいくつかが失われつつある」と警鐘を鳴らした。日常生活より広い時間的・空間的規模で評価すると、日本の生態系は私たちの認識以上に希少価値が高いという指摘はもっともである。自然の価値を適切に判断するには、それだけの大スケールが必要だと自戒すべきかも知れない。

 地域に貴重な価値があるとされるとき、その地域の土地利用の意思決定には誰がかかわるべきだろうか? 地域住民の意思が反映されるべきなのは当然だ。しかし、地域住民だけではその価値を適切に評価できない恐れもある。貴重なものほど公益性が増すとすれば、その価値は時間的・空間的に広範囲のより多くの人によって決められるべきだろう。公益的な資源利用の意思決定に、どの範囲の人が、どのような方法でかかわるべきかという問題は、それだけで 重大なテーマである。前項で述べた森林施業の目的設定・土地利用の哲学の確立のために、まず決めなければならないのは、意思決定の主体と決定に至る手順だろう。

(3)価値基準を共有する努力を

 自然保護と開発の対立において、両者が論理や価値基準が共有していないことも、解決を困難にしている。開発が主に経済的動機によって行なわれるのに対し、自然の科学的価値(希少性や種の多様性)を説くだけでは、開発を止める説得力に乏しい。もちろん、開発者は自然の科学的価値を十分に認識しなくてはならない。一方で、自然保護論者が開発を論理的に止めようとするならば、自然の価値を社会経済的指標で示す努力も欠かせないと思う。CVM(仮想市場評価法)をはじめとする自然環境の経済評価の試みは、いまだ充分に成果をあげていないように思われるが、今後の発展に期待したい。


(写真2)生物学者の立場から自然保護と林業の問題を提起する河野氏。

森林施業研究会のシンポジウムに参加して−団塊の世代の感想−

                              嘉戸昭夫(富山県林業技術センター林業試験場)

 「改めて、林業と自然保護問題を考える」と題した森林施業研究会のシンポジウムに参加しました。団塊の世代の私は、この時期になぜ自然保護問題を取り上げるのかと言う疑問と同時に自然保護という言葉に郷愁を感じつつ拝聴しました。最初にお話しになった自然保護協会の茅野さんからは、かつては対立関係(?)にあった自然保護協会に、群馬県の「赤谷」地域の森林経営を委ねるようになった林野庁の政策転換のいきさつと問題点についてお聞きし、つくづく時の流れを感じました。また、元京大教授の河野先生からは、拡大造林時代ほどではないにしても、未だに奥地の国有林でかなりの伐採が行われており、貴重な原生林が失われつつあることをお聞きすることができました。この話しとは別に、日本はパルプ用チップの大半をオーストラリアなどの南半球の諸国から輸入しており、チップ材の伐採によりタスマニア島をはじめとするオーストラリアの原生林が著しく減少したことを、私は最近になって知りました。日本の繁栄がこのような国内外の自然環境の悪化の代償の上に成り立っているのかと思うと複雑でした。また、国有林の伐採については「国有林野の特別会計制度を見直さないで、国有林の伐採だけを問題にしても解決しない。」との渡邊先生の指摘に、問題が単純ではないことを改めて感じました。森林総研の中岡さんの「日本林業再生」についての報告には日本林業再生への「願望」を含めて共感する点が多々ありました。ただし、「天然更新の活用」は願望としてわかるのですが、我が国では未だ天然更新技術が確立されておらず、目的とする樹種をより多く生産するためには人工林や天然林補助造林が不可欠ではないでしょうか。今回のシンポジウムを拝聴して、「林業と自然保護」は両立するものではないものの、自然に対する負荷をできる限り小さくする努力がつねに必要なことを再認識しました。

相手が何百年も生き続けることのできる樹木なのだから、もっと長期的な視野で

                              尾崎絵美(京都大学農学研究科森林情報学研究室)

 今回初めて森林施業研究会に参加させていただき、「林業と自然保護問題」について考える機会をいただきました。私自身は、小さい頃から漠然と森林保全に関する職業に就きたいと考え、森林を守っていかなければという思いであり、利用していくという考えはありませんでした。伐ることは悪いことだと思っていました。しかし、大学で日本の人工林について学び、その多くが採算性の悪さから手入れ不足になっており、伐ることが必要なことを知りました。天然林を保護するより、人工林の手入れをして利用していくことの方が必要なのではないかと。

 しかし、保護区域の境界のすぐ傍で伐採が行われていたり、天然林で伐採が行われていたり、日本が森林・林業に対して行っていることにやるせなさを感じずにはいれませんでした。様々な森林が成立し、独自の種も豊富な日本なのに、もっと日本は日本の森林に誇りを持って取り組むべきだと思いました。森林は木材生産、環境としての価値、エネルギーとしての利用等、様々な可能性を持っていると思います。短期的な利益だけを求めて利用するのではなく、国家の指針として森林とどのように向き合っていくのかを、理想とする国の姿をもとに考えていきたいと思いました。相手が何百年も生き続けることのできる樹木なのだから、もっと長期的な視野で考えていきたいです。世界から認められるような国づくりを森林をもとにできたらすばらしいのにとか。…と口で言うのは簡単で、私はまだまだ未熟すぎて具体的に何ができるのか模索中ですが。

 私自身は今日本に必要なのは自然保護なのか、林業をやっていくことなのかどちらなのかと思って自分の将来の道にも悩んでいましたが、どちらも必要なことだと思いました。ただ、どちらを行うべき森林なのか、それは個々の事情によって異なり、偏り過ぎない多様なカタチを取ればよいと今は思っています。もっと現在の姿を見て、過去にも学び、どうするのが一番よいのかを考えることが必要だと思います。自分で書きながら、理想ばかりを言っているように思えるのですが、今後も色々な機会に参加させていただいて、森林・林業について考えを深めていきたいです。

元に戻らないほどの破壊を伴う行為を林業とは呼びたくない

                              和佐 英仁(関東森林管理局・森林技術センター)

 木を伐り苗木を植えてまた木を伐る。この繰り返しが林業である。木を伐ることで付けてしまった傷を、苗木を植えて傷をふさぎ時間をかけて元に戻す。それも早めに。ある程度の攪乱がなければ林業はできない。だからといって、元に戻らないほどの破壊を伴う行為を林業とは呼びたくない。

 かつては、立木を伐倒しその場で枝打ち、玉切したものを集材し搬出していた。将来の肥料となる枝条を林地に残し、最小限の傷(元に復元できる範囲)としてきたと思う。

 今は、木材価格の低迷により、作業の効率化、低コスト化から、枝条を付けたまま大型機械で集材が行われ、林地に何も残さず、土壌をはぎ取られ更新できる範囲が狭まる。これで、持続可能な森林経営は、多面的機能の発揮は、本当に可能なのだろうか。

 更新のために林地を攪乱するワクチンは必要でも、副作用が大きな薬はいらない。日本の林業にあったワクチンの開発が林業と自然保護の問題を解決するのではないだろうか。自然保護のために林業が衰退しては、元も子もない。林業をすることで自然保護となる道は必ずある。

印象に残る河野先生の講演とその後の全体討論

                              松浦俊也(筑波大学生命環境科学研究科)

 森林施業研究会に今回初めて参加したのですが、河野先生の講演とその後の全体討論がとくに印象に残りました。そこでの議論を中心に感想を記したい。河野先生の講演では、第三紀まで遡って位置づけられる日本の森林の多様性とその貴重さについてグローバルな視点から整理された。また、歴史的に分断された森林のもつ遺伝的相違の重要性とともに、新たに分断化が進む森林での遺伝的多様性の低さについて、フィールドデータにもとづく比較研究から実証的に示された。私は景観生態学と地形に関わるGISの手法開発を研究対象としており、森林の分断化の問題について表層的な知識は持っていたものの、具体的実感を伴っておらず、綿密なデータにもとづく実証的な図を見て、問題の切実さを実感できたのが収穫でした。

 また、日本各地での森林伐採、施業方法の問題や、一見(素人的には)負荷が小さそうに見える択伐での尾根筋の種子源となる母樹伐採の問題など、おそらく重要な問題群のほんの一端の紹介と思われたが、重要な問題が山積していることが感じられた。その後の総合討論では、施業現場、研究者、林学分野、生態学分野それぞれからの本音トークのようになり、問題の大きな枠組みが提示されているようで興味深かった。討論では、ゾーニングの重要性や、現状の機能区分がほとんど機能していないこと、生物多様性の保全を考慮した森林施業方法を探るためには、モニタリング、計画、管理等々の各段階で多くの検討課題があることが感じられた。

 今回のシンポジウムに参加して、モニタリングや現場での森林の施業・管理・保全の重要性とともに、大面積の山林の個々の場所がもつ特徴や重要性を概括的かつキメ細かく捉える手法の必要性が感じられた。地形・地質が複雑な湿潤変動帯の日本では、細かな斜面上の位置や形状などの小・微地形の特徴や、集水域内の配置や比率などから抜本的にゾーニングや施業管理の枠組みを整理しなおす必要があるかもしれないと思われた。よく言われるように、地形は、斜面、集水域、流域といった階層性が比較的明瞭で、現場での空間認識や計画の単位と対応づけやすいので、このような誰もがもっている空間認識の枠組みを自動記述するところから、ゾーニングも考えていく必要があるのではと思われた。

 最後に、河野先生は、重要なこととして、論理のもつ限界について指摘された。計画等の分野では、得てして限られた視点からの論理にもとづきものを捉えることが多い。論理とデータによる実証の双方にもとづく科学的な捉え方の大切さを指摘されていたことが印象的でした。


(写真3)話題提供者の講演に聞き入る参加者。

私信の形をとったシンポジウムへの感想・意見

                              水永博己(静岡大学農学部)

拝啓 鈴木和次郎様

農大での林学会では御世話になりました。とくに施業研究会には久しぶりに参加させていただきました。相変わらずの意欲的な企画、有難うございました。ところで、このシンポジウムに何かコメントをとのこと、苦手な仕事でお断りしようかと思っています。今回のような大きいテーマについて、よりにもよってこの研究会を随分さぼっていた私にどのようなコメントを期待しているのでしょうか?

河野先生には、国有林で現在も続く略奪的森林伐採の現状を憂い、択伐の名のもと、循環的の名のもとに行われている伐採の実態を示していただきました。会場におられた国有林の現場の方の声も、こうした現象を肯定するものであったので、指摘されたトレンドがどうやら一方的・あるいは一面を誇張した議論でないと判断できました。恥ずかしながら、お誘い頂いたリーフレットにあったように、国有林の森林管理と自然保護との対立軸は終焉したと信じ込んでいたのですから、これらの話をただ驚きを持って聞くばかりでした。とはいえ実は大住さんから前日、空中から得られた同様の情報を教えてもらった直後だったので、ショックというよりむしろ「ヤハリ」という気鬱さが心を覆ったのが心境でした。いたずらに前置きを長引かせて、用件を切り出さないとお叱りを受けるので、三つほど気になったことについてお教えを請おうと思います。

質問1 林業哲学の2007年問題

 「知床」に代表される 林業 対 自然保護 の構図と、河野先生が指摘された現在進行形の構図には、少し違いがあるような印象を受けました。前者には確信犯的な要素が、つまり「知床」の時代は確固とした経済優先・生産意識が自然保護の対座にあったのでしょう。一方、現在進行形の略奪的森林伐採は何に由来しているのでしょうか?シンポジウムの中で拾った気になる言葉、“大事にしていた尾根まで伐採している”、“何でもありの世界”、“机上プラン優先”、”どうしたら良いのかわからない”。

ここ数年気になっていたことなのですが、今世間を騒がせている2007年問題が、国有林にかぎらず、林業界ではいち早く生じ、しかもその有効な手立てが打たれぬまま顕在化しているような気がしていました。職人のリタイアと、技術の空洞化。JRやJALではコスト至上による、海外委託・人員削減が職員の技術力低下を招き、安全神話を揺るがす結果となっているとの新聞報道がなされています。それと似た状況が特別会計の国有林において生じているのではないでしょうか。そして、それは単に技術だけの空洞化ではなく、適地適木(施業)だとか、収穫規制だとか、法制林思想だとか、技術を支える哲学とも言うべき基本的な考え方すら怪しくなりつつあるのではという思いをしました。

では、この2007年問題、技術の、思想の、伝承をどこが担うのか?少しニューアンスが違うが目をつぶって林業の現場教育と言い換えましょう。その現場教育をどこが担うのか、大学にもその責があるはずですね。大学教育のお話は会場で宮崎大学の伊藤さんに適切にまとめていただきました。今、大学では技術者教育のシステムとしてJABEE制度をとりいれようとする動きがあります。私には、JABEEが真に森林・林業技術者を作れるシステムなのかどうかよくわかっていませんが、形式論はともかく現場感覚にあふれた教育内容を構築できるかが鍵でしょう。ただ硬直化したカリキュラムの中で、あるいは過保護的安全論のなかで、フィールド教育が出来にくくなりつつある実態があります。シンポジウムの中での京都大学学生の言葉「私たちは林学を学んではいない」は耳が痛いものでした。林業をしっかり支えるためにも、大学の森林教育は変わらねばならないのでしょう。しかし法人化以来の流れはむしろベクトルが逆の方向を向いているような気がしています。

公務員技術者は林業技術教育を受けた人材の活躍の場・教育のアウトプットの一つです。その採用試験対策として森林・林業白書を読んでおくことが必須だと巷の噂です。たしかに採用する組織の考えを理解した人間を採用することはケチをつけられるものではないかもしれませんが、違和感を覚えています。組織お手盛りの文章や思想を記憶して採用された新人が、配属先では現場になかなか出させてもらえず、ますます現場感覚や技術者としての感覚を後退させて、しかし立派な行政マンに育っていくといった妄想がちらついてしまいます。技術者としての基本能力を問う選抜方法はないものでしょうか?

ともかく、技術の空洞化・林業哲学の空洞化が国有林の現場で進行しているとの印象が危惧であってほしいので、このあたりは国有林事情に詳しい方々の情報をいろいろお聞きしたいと思っています。実際のところどうなのでしょう?

質問2 ゾーンニングの功罪

ゾーンニングは土地利用を考えるにあたって便利な道具です。目的とする機能を明確にして、機能達成のための森林管理を考える・・その合理性は一見魅力的です。しかし、ゾーンニングには中岡氏に指摘いただいたような、保全のための線引きを「伐採」・「非伐採」の線引きと誤解する(あるいは悪用する)愚が生じる可能性があることを認識しました。ゾーンニングを免罪符に使う人間の業(ごう)を考えたときに、ゾーンニングの森林管理に果す有効性を再検討する必要もあると感じました。

ゾーンニングに関して渡邊先生は、林野の「資源循環」・「水土保全」・「共生」の機能区分を例にあげ、最近の森林管理技術の貧困さの元凶の一つは、この機能区分にあると断じられました。短い時間のお話しだったので十分に理解できたわけではありませんが、森林の機能は一つに集約できるものではなく、多様な機能を持続的に高度に発揮させるのが本来の森林管理という主張は共感できるものです。ただ同時に、今から四半世紀昔、不真面目な学生だった私には森林経理学の「森林総効用最大の伐期齢」(全ての効用を評価し、その年平均額が最大となるときの伐期齢)が具体性をもって理解できなかったことを思い出させてくれました。どのように多機能を同時に高度発揮させるのか、ゾーンニングなしに多様な森林を創出できるのか?ちょっとまだ想像がつきません。もしかすると求められるのは、機能のゾーンニングではなく(勿論、全国の森林を三つに機能区分するというものではなく)、ポテンシャルのゾーンニングだとか、イメージする将来の林分構造のゾーンニングなのかもしれません。

ゾーンニングの功罪あるいはあり方についてどうお考えになりますか?

質問3 天然更新と針広混交林化

 中岡氏は、天然更新の積極的利用や人工林の広葉樹林化の提案をしておられました。しかし、これらの施業は未だ大きな研究課題が残されており、技術体系が実用に耐えられるところまで発達していません。こうした技術的裏づけなしにむやみにギャップを創出することは、略奪的伐採とかわらない行為であるといえます。天然更新といいながら、更新を確かめずに行う自然破壊的択伐そのものといえます。個人的には更新問題の解決―低コストな天然更新の確立―が林業が元気になる一つの大きな方策とは思っています。そして日本の造林学が、競合植物の多さと生育の旺盛さ-更新樹種の定着の困難さ-を言い訳に、天然更新施業を(苗場ブナやヒノキ更新の例を除いて)真面目に継続して取り組んでこなかった面はあるかもしれません。しかし、今は未だ研究として試験的に取り組む以上のことをやる時期ではないと考えます。技術の裏づけなしのギャップ創出について、行政主体で能天気に推進しようとしているのは困った問題だと思っているのですが(単なるマスコミ用のパフォーマンスだとしたら、まだご愛嬌ですが)、和次郎さんはどう思われます?

再び2007年問題

 最近、大住さんや和次郎さんが用語の問題に敏感になっておられることに気がついていました。私はもともと言葉や用語に無頓着のほうで、使い方はシンプルに、種類は少なめのほうが良いと考えていました。記憶力のなさにボケも進んできたので、、。たとえば、「間伐」という言葉に対しても、残存木の育成のみに限定した使い方をしなくても(造林学の教科書にも間伐の効用に下層植生・・があるし、)、柔軟な定義をすればよいと考えていました。私の講義でも間伐を「その林分の経済的・生態的機能を高めるための人為的な(その林分にとっての)小規模林冠撹乱」との私なりの定義をして、教えていました。しかし、和次郎さん達の態度から類推すると、この姿勢にも2007年問題を助長させているのでしょうか?言葉の喪失は技術や概念・哲学の喪失・・過去使われた言葉をきちんと残していくことが必要ということでしょうか。今は理解できる気がします。言葉と、技術の空洞化の問題・・少しはそのような目で「造林」を考えてみたいと思います。

さてすっかり手紙が長くなりましたが、これはコメントをお断りするための手紙なのです。決してこれがコメントだと誤解しないようにしてください。団塊の世代より少し遅く生まれただろう和次郎さんに、もう少し遅く生まれた私が気になっていた林業界の2007年問題をすっぱり否定してもらって、ついでに宿題も許してもらおうというつもりなのですが、この試みは成功したでしょうか。

敬具


予定調和論の原点思想から林業の再生を期待する
                            
谷口 真吾(兵庫県立農林水産技術総合センター森林林業技術センター) 

 第117回日本森林学会において、恒例の第11回森林施業研究会シンポジウムが開催された。今回のシンポジウムは「改めて、林業と自然保護問題を考える」と題して、行き先の見えない国内林業の現実、海外資源への依存・収奪による環境破壊の現状、未だ確立していない持続可能な森林管理技術の開発、国内における林業経営の名のもと、いまだに継続している貴重な天然林あるいは天然木の伐採などの収奪林業がなされる等の大きな問題が渦めく中で、林業は本当に自然環境を壊していないか? 環境に負荷を与えることなく、持続的な林業経営が実現されているのか? 現代林業は自然環境の保全に貢献していると言えるのか? に対する解決の糸口を求めて、3名の先駆者による話題提供と参加者との議論が展開された。私はこれらの議論をふまえて、収奪林業から持続可能な林業への変革や展開を進めることは可能であるかについて考えてみた。

 このシンポジウムに参加して、強く感じたことがひとつある。それは、民有林経営の範たる国有林の現場においても「現場技術の軽視と机上理論あるいは机上技術の台頭」が国有林の現場においてもすさまじく進んでいるという現実に驚きをもった。

兵庫県における地方の林務行政の現場でも、何年か前からうすうすそう感じてきた。しかし、机上理論、机上技術のみがひとり歩きしている事例を特に感じなかったし、林務職員の同僚には若手も含めて、自身の林業技術者としての誇りを賭けて技術力の研磨に日々奮闘している職員も多くいるので、それらが現場技術の軽視に強い歯止めになるからと特に心配はしていない。けれど、国有林では現実にそうなっているということであった。

話題提供では、間伐や複層林の効果への過信、広葉樹造林への過信、林道・作業道への不信感、里山の多様性保全への情緒的取り組みなどをその事例としてあげておられた。机上理論あるいは机上技術の台頭に対しては、現場技術の理解を深め、新たな新技術の発掘、技術者が正しい技術を理解し、行政への反映を進めるべきだと述べられた。この考えは、自然保護にも通じる共通点があるとされた。そして、森林管理政策の手法としては、原生的な森林は保全し、二次林等の人為を受けた天然林は、1.自然の推移にゆだね原植生へ回帰させる。2.林業的な循環利用(利用→再生→利用→再生)を進める。の2パターン、そして針葉樹人工林は、1.造林木を利用しつつ天然林に回帰させる。2.長伐期・非皆伐施業、3.個別経営方針による施業の3パターンを提案された。そして、それを実現し、適正な森林管理を持続させるための条件として、林道・作業道等の基盤施設の充実と生産コストの低減、林地の保全と林道・作業道等に信頼できる技術者の養成、木材利用技術の開発など、安定した収入(需要先)の確保であるとされた。この提言は今後に大いに参考になった。地方の林務行政の現場でもそのまま当てはまる提言であると思った。

針葉樹の人工造林を続けてきた兵庫の林業は、外材との価格あるいは材の強度や加工性などの性能競争に敗れて、衰退の一途である。しかし、この林業を再生するには、徹底したコスト削減とリスク分散のための広葉樹を含めた多様な樹種の育成が不可欠である。話題提供にもあった自然力を最大限に生かした天然更新の活用と生産基盤施設となる林地保全に配慮した作業路網の整備・充実が不可欠である。可能な限りの潜在植生に近づけた状態で持続される林業には、予定調和論の発揮とシンポジウムの主題である自然保護の理念にも合致するものと考えられる。

私はこのシンポジウムに参加して、適正な森林管理をして健全な森林を育成すると森林の諸機能が最大限に発揮できるとする予定調和論の原点思想に今一度立ち返り、林業の再生に尽くすことができる林業技術者でありたいと決意を新たにした。


(写真4)総合討論の中で意見を述べる参加者。



地球の各地から(1)

インドネシア中央カリマンタンでの植林事業

                              高田容子(NPO平和環境もやいネット会員)

これから皆さんに、私が体験した植林事業についてご紹介します。読んでいただけると幸いです。

私は、昨年2005年8月から今年2006年2月の約半年間にわたり、インドネシアの中央カリマンタン州に位置するパランカラヤ市周辺にて、植林事業を行ってきました。本事業は、特定非営利活動法人 平和環境もやいネットによるもので、私は当団体の現地スタッフとして派遣されました。事業名は「熱帯泥炭湿地への在来有用樹種植林事業形成調査およびCDM対応可能な炭素固定効果の算出(プロジェクト形成調査)」で、 (財)国際緑化推進センターが行っている林業NGO等活動支援(林野庁補助事業)の助成を受けて行われたものです。

調査メンバーは、泥炭湿地林の生態系に詳しい当団体会員の百瀬邦泰・愛媛大学農学部助教授をはじめ、同会員で専門知識のある学生2人と私の計4名でした。私は、学生時代の先輩の伝で、今回参加する機会を得ることができました。参加以前は?といいますと、直前まで果樹の苗木生産をしている農業法人で働いていました。現地では、カウンターパートであるインドネシア共和国パランカラヤ大学CIMTROP(国際熱帯泥炭管理センター)の協力し、事業を実施しました。

続く(PDFファイル 1.91MB)

<編集後記>

林学会改め森林学会の大会で、久しぶりに一日中、講演を聞き続けた。一時期、かげを潜めた施業に関する発表も目に付くようになったが、それは以前のような木材生産を主目的とする施業ではなく、森林の多面的機能発揮を目指すもので、間伐にいたっては、それ自体が保育の手段ではなく目的化する内容となっていた。学会も様変わりしたものである。その後、仕事で立ち寄った何とか事業の補助金で建てられた「何とかの駅」でFSC認定グッズが販売されているのを目にした。間伐材の破材を利用した木材小物(鉛筆立て、石鹸入れなどなど)。これで商売になるとは思えなかったが、これも一つの村おこしか?と苦笑。どうも我が業界、本道から外れているような・・・・。

そんな折、間伐直後のスギ人工林に入った。伐倒された間伐木が撃ち捨てられ、うず高く積み上げられている。何とか組合がよいとこ取りで放置した跡だという。十分に利用可能な材が、儲けが少ないからといって、打ち捨てられているのは見るに忍びない。いったい、これまで育てるのに、植え付け、下刈り、除伐、保育間伐と、どれだけの金と労力が投入されてきたのか・・・・。林業者の意識・価値観が大きく変わってしまったに違いない。温暖化対策としての森林整備(間伐しかないが)に税金を投入しても、結局は間伐により、人工林が二酸化炭素の排出源になっているのではないか?こうした森林整備の先に、目指すべき森林の姿はない。またまた、間伐が目的化されているのだ(狢)。


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