平成11年5月6日

(私のジグザグエッセイ)

『林業の消滅危機→林学の消滅危機→森林との結びつき』 −現代の価値観の逆転する中で−
 
島根県林業管理課専技スタッフ 太田 耕一

1、戦後の復興造林の中で
終戦後GHQ指導の中で林業普及制度が生まれた。その当時は、ドイツ林学を根底において日本の優れた試験研究成果を即、森林所有者、林産業者、その他林業関係者の現場におろそうとしたのである。しかし実際には、試験研究成果を広く一般林業政策に反映させ得ず、また適応技術がないままでは、一般現場に研究理念が受け入れられることもなかった。もちろん、試験研究者自ら時間を割いて指導に当たったことも少なくなかったのであるが、その必要性に比べれば、極めて不十分であったであろう。

 戦後の、すべてがハングリーな時代に受動的だった農山村民にとって、"柔道でいう教育的指導" 即ち優れた研究成果の押し売りは、その地域地域にマッチしたものばかりでないために農山村民になかなか受け入れられず、普及指導作戦の転換を余儀なくされてきた。ポスト戦後の指針は自主性・自発性に基づく主体性のある農山村民の育成であったのである。

 

2、恣意的、財産保持的農家林家の立場
林業経営の主要な目的の一つは、林産物の生産であり、森林所有者等の所得に寄与しつつ社会の要求を充足する事にある。それだけに一般経済界の諸法則から逸脱することは許されないし、またその変動の波に反抗して経営が成り立つものでもない。言い換えれば、技術的観点からの合理化が必要であるとともに、経済的にもこれを合理的経営に移さなければならないだろう。

島根県の造林事情を顧みると、昭和30年代〜40年代前半の拡大造林推進時代には間伐材は金になるもの、木材生産は50年〜60年経てば、必ず儲かると信じられていた。島根県では県内に先進的な林業地の模範がく、基本的育成技術のないまま、見よう見まねで造林してきた経緯がある。最近の伐っても売れない、安い木材価格動向のなかでは森林育成技術改善に向けての気力がでないのも自然である。

3、価値観の逆転 −絶対的普遍主義と相対主義の対立−
自分が犠牲になり、会社や他人のために努力しガンバリ、そして自分の人格を立派にするという二宮尊徳に代表される勤勉主義は、いつの時代でも、またどんな社会でもほぼ絶対的に支持され、普遍的な価値を持っていただろう。しかし、最近のライフスタイルは「自分なりに」という相対的な考え方が多くなり、絶対主義、普遍主義は影が薄くなってきた。「こうであってもよし」「ああであってもよし」とするのが日本の大学生の平均的な姿であるという。それは相対観を土台としており、生き方や価値観の「多様化」とともに、多くの日本人の常識観になりつつあるようだ。

戦後の日本は耐えて頑張ってようやく先進国の仲間入りをしたが、今、若者たちはタテマエとして“耐える”ことから、ホンネの“欲求”を肯定したい心情を強く持つようになってきた。相対主義の台頭は若者の心からこの「たてまえ」の喪失を加速している。昭和52年頃を境にして若者等の価値観が転換し、自分大切という「個人主義」が定着した。そしてこのことは、可能な限り手足となって動く労働を拒否し、仕事離れを促進した。その時々をエンジョイしようとする傾向の強い現代若者(新人類)は汚い、きつい、危険な「3k」の仕事を嫌うが、このことは、現代社会の退行や進歩のなさとなって、社会の危機をもたらしているとも考えられる。

4、以上の3つの反省・社会情勢から林業と森林をつなげるもの
(1)「伐採から始まる土地生産業という林業の再認識」
 ・林学的な発想についての一般の人に対しての理解を深め、イメージを改革する必要がある
農林業の基本は自給自足であり、その国の貴重な森林資源を有効に活用する方策を練ることが林学の基本と考える。ただ、世界的な自由貿易拡大の中では自給率向上というスローガンは迫力に欠ける。しかし、巨大な商業資本のもとで林学の理念を忘れた開発は許されないだろう。私からの出発でなく、公から森林を見ることが必要な時代になってきたのではなかろうか。(林学の範疇の拡大)

・否定される絶対的基準
110回日本林学大会の発表内容も多種多様となったと思う。「こういう研究課題でなければならない」という規範は、希薄となっていると思われる。このことは価値観の「多様化」とともに、参加・発表する人の常識となりつつあるようだ。価値観の多様化は、前述の「価値観の逆転」のなかで生まれた相対観のバリエイションであって、そこに林学会の本質的な問題をはらんでいる気がする………。「残念ながら自然・森林分野に今、林業分野・林学以外の新規参入の人がめざましいので、気がつかないうちに大切な林学の仕事をみな他の分野の人にとられてしまうかもしれません。」(○○大学助教授)

(2)「予定調和論の限界」
森林=林業と考える目的合理主義には限界がある。従来は予定調和論的な考え方が思考の中心であり、人間の行為(生産行為)が森林の公益的機能発揮にも役に立つだろうと信じられてきた。そもそも生産に役立つかどうかで思考するのは、二宮尊徳時代、物のない時代の遺物であるのではないだろうか。

自然の生態系のサイクルには、人間の産業的機能主義では律しきれない複雑さがある。そこでは人間の行為は付随的であるだろう。現代では「機能主義」万能時代の目的合理主義とは正反対な考え方が必要なのかもしれない。

(3)「資本主義的産業社会からの脱却」
 ・このことは前述2の“林業経営の主要な目的……”とは矛盾している→森林のゾーニングの必要性
近代日本の豊かさを作り出した産業社会のパラダイムは、マックス・ウェーバーのいう目的合理主義に依拠している。したがって、生産世界では今も昔も人間の思考の中心は目的合理性にあり、大量生産・大量販売のためのコントロール、機能的合理性が求められる。しかし外材の占める割合が80%を越えてしまった現在……一部地域を除いて我が国においての林業という産業社会?は、目的合理主義オンリーからの離脱が迫られているのではないだろうか。

・理念の喪失
今までは、人の行動は「理念」と「欲求」に基づくものと考えられていたし、多分、今でもその原理は変わりないだろう。だが、日本人の価値観が変わった今、林業経営のあり方を考える基本的要素である「理念」と「欲求」は、従来の枠組みでは理解できなくなってきたようだ。あり余るほどの木材製品や電化製品などの「モノ」に囲まれ、「欠乏感」のない生活の中で、従来の理念や目標は喪失してしまったといえよう。(「モノ」から「コト」への社会変化)

(4)「研究者の神髄」
・“本当に学ぶ”ためには、頭にはめられた“たが”をはずすことが必要である。(論語解釈より)
仕事に対して使命感が強くなければならないが、しかし“独り善がり”であってはならない。人間社会に対する誠実さ、社会 生活に対する忠実さの中に仕事(試験材料)はたくさんある。そこにはいろいろな科学技術を必要とする 芽がころがっている。その芽を育てるのが研究者、われわれ林業行政ともどもの仕事だと思う。今は、複雑多岐にわたる社会・経済・文化(科学)を土台に据えた研究が求められている。但し、その研究目的は単純かつ明朗がよいだろう。

21世紀は間違いなく、生態系管理を重視した環境保全対策がメインになることだろう。しかし、今の一般的コンセンサスでは生態的管理がいかに環境の保全に通じても、経済的、物理的に現場に受け入れられる状況がない。研究と現場施業とのギャップを埋めるには多大の苦労と労力とアイデアが必要に思われる。 

 

結語
森林はその地域の生活文化の基礎となっていて、多面的な地域文化を育てるために欠かせない。さらに森林は大地の気の源泉であり、“森林の効用”は人に癒しを与える。

今、「森林から」の発想に基づく林学そして林業を考える時だと思っている。冒頭の『林業の消滅危機→林学の消滅危機→森林との結びつき』という発想を転換して『森林との結びつき→林学の復興→林業の創造』を目指したいと考えている。

  以上、私の随想録ですが、一つでも御納得いただく点があれば幸いに思います。御反論快く頂戴い致します。

 

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