木霊 (TARUSU)
  森林施業研究会ニュ−ズ・レター  No.5 1999.5.15
  Newsletter of the Forest Management and Research Network


「理念泣き森林管理,技術亡き森林施業」からの脱却を目指す
 森林施業研究会シンポジウム(第4弾!)開催される


   講演会場の様子 1.聴講中(52k) : 2.発表中(48k)

愛媛大学で開かれた第110回林学会大会最終日(4月5日),恒例の森林施業研究会シンポジウムが,研究者・学生をはじめ,林野庁,県,民間の林業関係者,およそ100名の参加のもとで開催されました。今回のシンポジウムでは,「間伐をめぐる新たな視点」として, 進まぬ間伐と森林管理の上での間伐役割を取り上げ,4つの話題提供がなされた。

(1)「生産生態学の視点から見た間伐理論の検証−定性間伐と定量間伐」
     玉井重信(鳥取大学)
(2)人工林の生態系管理における間伐の役割
     清野嘉之(森林総研・関西支所)
(3)間伐の現状と推進の手立て(行政)
     金澤弘行(高知県森林局)
     山崎俊彦(高知県森林技術センター)
(4)間伐の現状と推進の手立て(事業者)
     白川哲也「第三セクター・いぶき」(愛媛県)

これらの話題提供を受け,宮崎大学の伊藤哲氏の司会で,総合討論が行なわれ,間伐をめぐる様々な問題が浮き彫りにされた。しかし,木材生産や人工林の生態系管理の上からの間伐の重要性を認めつつも,それを進める具体策までには,とうていたどり着けるだけの時間がなかった。最後に森林施業研究会の代表である渡辺定元氏がシンポジウム全体の総括し,間伐問題を今後も林業研究者,技術者の間で追及して行くことを訴えた。シンポジウムの詳しい内容については,次号の「森林科学」に記録として掲載の予定です。なお,今回のシンポジウムの開催にあたり,会場その他を準備し,協力を頂いた愛媛県林業試験場の石川実さん,中岡圭一さん,愛媛大学の皆さんに紙上をもってお礼申し上げます。 以下,シンポジウムの全体の総括を宮崎大学の伊藤さんから,また,今回の参加者の中から,シンポジウムの感想,意見,批判などを御寄せ頂いたので,掲載致します。

第4回森林施業研究会シンポジウムin松山
 伊藤 哲(宮崎大学農学部)

 松山(第110回日本林学会)において「森林施業の新たな方向を探る研究集会」の第4回目のシンポジウムが開催されました。過去、人工林施業、天然林施業、多目的管理という比較的大きなテーマでシンポジウムが行われてきましたが、今回は間伐という具体的な保育作業にスポットが当てられ、理論的、実践的、社会的な立場からさまざまな話題が提供されました。ご承知のように近年、間伐の重要性は良質木材生産のためだけでなく森林の生態的管理のひとつとしてもその重要性が再認識されてきています。一方で、日本の針葉樹人工林の約8割が早急な間伐を必要としているにもかかわらず、「売れない間伐材・進まぬ間伐」のため森林の資産価値が低下するという悪循環に陥っているのも事実です(鈴木氏の趣旨説明より)。このような状況下で、シンポジウムには林業、行政および研究のそれぞれの現場から多数の参加を得て、ほぼ満員の会場で討議が行われました。
 シンポジウムの記録は「森林科学」に掲載される予定です。詳細はそちらを参照してください。私は総合討論の司会を(当日の朝事務局から突然告げられて)担当した者としてシンポジウムのまとめを書くよう依頼されました。しかし、膨大な情報と指摘された多くの問題点を私の力量でまとめるのは困難ですので、以下に個人的な印象や疑問および反省文を載せて、まとめにかえさせていただきます。

重たい間伐の話題
 私にとっては重たい研究会だった。もちろん突然の司会指名も気が重たい理由の一つである。間伐という古くて新しいテーマをどう議論すればいいのかよく分からなかった。さらに、私が9年間も演習林という大学では最も現場(しかも特別会計です)に近いところに勤務していたにも関わらず、また現在は学生の間伐実習を指導している(!)にも関わらず、正直言って間伐がよく分かっていないのを自覚していた。その分、今回は貪るように各氏のお話を聞かせていただいた。

認識不足
 まず、鳥取大学・玉井重信氏より「生産生態学から見た間伐理論の検証−定性間伐と定量間伐」についてお話があった。個体順位の変動が林齢や光環境で異なることは予想できたが、これほど明確にデータで示されていたことを全く知らず、反省した。
 以前は、列状間伐はシステマティックすぎると批判的に考えていた。昨年、渡邊代表から防災水源かん養路網試験地の列状間伐のお話(ニューズレターNo.4参照)を伺ったときは、その有効性を初めて認めた。ところが今回、「落ちこぼれた樹木の将来は結構厳しい」というお話をうかがって、また「やっぱり定性か!?」という考えに戻った。堂々巡りで、自分の中で整理できていない。後でその理由を考えてみると、科学的な知見をどう解釈し、どう利用すればいいのかを認識していないからと感じた。つまり、間伐の対象・時期・目的や期待する効果が設定されていないまま、どちらが良いのかを一般論として整理しようとするから、いつまでも迷い続けるているのであろう。渡邊代表は個体サイズの対数正規分布(つまり本来あるべき変異)の維持を強調され、同齢複層林化まで視野に入れてのお話だった。今回私は、「間伐=密度管理によって林分内の変異を小さくし、平均的な形質を上げること」という決まりきった前提で定性VS定量のお話を聞いていたような気がする。本来、間伐とはそんな狭義のものではないと教科書にも書いてある。再度反省した。別の話題で列状間伐に対する批判的な意見も出たが、これに対して渡邊代表の最後の総括では「若齢時に林分葉量を増やす」という列状間伐の時期・目的を明示された。この考えがどこの山にでも当てはまるとは思わない。しかし、簡単に一般的な結論を導かず、対象や目的を少しでも明示することが「きめ細かな施業」を探る第一歩なのであろうと感じた。

予定調和?
 次に「人工林の生態的管理における間伐の役割」という題目で森林総研・清野嘉之氏から提供された話題は、綿密なデータで間伐と表層土壌浸食および下層植生の動態との関係を解析した結果であった。このような仕事がすでに10年も前になされていることに驚き、それを知らない自分を再び恥じた。お話の内容には、一般に言われている(施策の論拠となっている)生態的管理としての間伐効果に対して、懐疑的にならざるを得ない結果もいくつか示された。少なくとも我々が期待している効果が常に現れるわけではないことを示しているように思える。「やはり」というのが正直な印象である。後の白川氏のお話にもあったように、林業政策には定型的なものが多い。間伐に関しても「常に、全てにおいて、一律に善である」というような認識が強いように感じる。これだけ日本列島が細長く、でこぼこしているのに、効果が一律なはずはないと思う。
 清野氏の言われた40年という数字が印象に残った。ヒノキ林の状態に様々な変化が起こり、間伐のもつ下層植生への効果が比較的小さくなる時期とのことである。逆に、40年までは環境保全の面からも間伐の必要度が高いということになろう。実は15年前に、大学の講義でスギ林についても同じ40年という数字が強調されるのを聞いた覚えがある。スギの地上部と地下部のバランスから見て、人工林の崩壊防止等の機能がまともに発揮されるのは40年を過ぎてからである(竹下敬司氏)、という内容であった。私の住む南九州では、中目材生産を目的とした短伐期(35−45年)の施業体系がスギ人工林の多くを占める。40年は私にとってとても気にかかる数字である。

大学人の無責任
 続いて「間伐の現状と推進の手だて(行政)」と題して、高知県森林局・金澤弘之氏からは高知県における間伐推進事業の概要が、また高知県森林技術センター・山崎敏彦氏からは列状間伐と定性間伐の工程・経費の比較が紹介された。生態屋はただ聞き入るばかりであった。もちろん中には疑問を感じる話もある。しかし、お話の中に自分の研究の落し所が見つからない。使える内容を意識して研究しているつもりが、実際に行政の方の話を伺うと自分の研究の行方が分からなくなる。問題は、普段の私が疑問を感じる機会もなしに研究を進めていることであろう。間伐の採算性のお話にいたっては、わずかな批判能力すら持ち合わせなかった。林学をうたいながら、ひとたび現実問題に向き合うと全く手が出せない。それでも「森林科学」を担当する大学人として生きていけるところに、気まずさを感じる。

応用研究の良識
 最後の話題「間伐の現状と推進の手だて(事業者)」(第三セクターいぶき・白川哲也氏)は、私にとってもっとも重たい内容だった。私がいろいろ書くより、内容をそのまま「森林科学」で読んでいただいたほうが良いと思う。
 私の印象に強く残ったのは、採算性の悪い間伐を敢えて進める理由である。ひとつは皆伐後の植林コストを避けること。このような理由をいったいどれくらいの研究者や行政官が把握しているのだろうか? 予想もしていなかったのは私だけだろうか? もうひとつは手入れの遅れによる林の劣化に歯止めをかけなければならないという使命感。失礼な言い方になるのをお許しいただければ、森林を守る意識がとても高い。事業によって森林環境を保全することが「第三セクターの使命」と言い切っておられた。そして、「林業はあがきながら、いずれ死滅する」と言われ、自由経済の範疇に林業をとどめるには限界があることを指摘された。言葉も出ない。
「政策の視点はずれていないか?」
「研究に的外れなものは多くないか?」
「方針に筋は通っているか?」
「誠実さと責任を欠いた研究は林業現場を失望させかねない」
 私たち研究者が、データを取る前と論文を書いた後に考えるべきことは多い。

何が足りないのか? −少し我田引水ですが−
 研究者の一人として、施業研究に何が足りないのかを考えた。研究成果のうち、それ自体役に立たないものや大きく的外れなものは少ないと思いたい。ただ、使える形で提供される情報が少ないのは事実であろうし、論文として成り立っても現実の森林の多勢からみれば非常に特殊なケースしか扱っていない研究も多いであろう。いい試験地は得てして調査しやすい場所に多い。ひとつの研究が少ないケースしか扱えないのはどうしようもない現実である。その分、研究者は例えばこの研究会などを通して、せっかくの研究成果をできるだけ使える形で提供するよう努力すべきなのではないだろうか。その際、安易に普遍化した結論を導かないことも大事であろう。とりあえず私は、今後は調査しにくいところにもできるだけ調査地を設定しようと考えている。
 今回のシンポジウムで、日本の森林・林業が抱える地形の影響の大きさを再認識した。私が地形がらみの仕事をしているのでそう感じるのかもしれないが、施業研究の「きめ細かさ」を考える上でとても大事だと思う。土壌浸食は当然傾斜度に影響を受けるし(清野氏)、さまざまな人為が加わった人工林ですら下層植生の種多様性は地形に強く依存する(伊藤未発表)。地形因子は、樹木の成長のための資源や土砂の移動だけでなく、人間の行為に対しても大きな制約となる。間伐を必要とする人工林は奥山の急峻な場所に多い。一方、採算性が悪く間伐が進みにくいのも急峻な場所である。登るのに息が上がる場所は作業効率が悪く採算が取れない(白川氏)。
 結局ゾーニングがもっとも重要な課題なのではないだろうかと感じた。外部経済の評価や緊急性の判断(高知県・金澤氏)にせよ、定量・定性などの間伐種や間伐強度の設定にせよ、とても一律に決定できるものではないし、ひとつ間違えば「役に立たない研究の応用」であったり、「視点のずれた政策」になったりしかねない。間伐の対象、目的、時期を設定し、効果を予測する上で、あるいは研究成果を応用し施策に反映させる上で、地面の凹凸はもっと重視されて良いような気がするのだが、やはり我田引水でしょうか?

総合討論・・・
 多くの発言者の方々から、貴重なご意見を数多くいただきました。でも申し訳ありませんが、私の力ではまとめられません。思い出すだけで冷や汗が出ます。討論にご協力いただいた皆様に、この場をお借りしてお礼申し上げます。

地域生態系の管理を視野にいれた森林施業の必要性
 金沢 洋一(神戸大学農学部)

 森林施業というのは今のご時世では地味で人気がなく、少数の関係者のものと信じていた私にとって、多数の参加者があったことは驚きであった。これは何を意味するのだろう、との疑問を抱きつつ、集会に参加させていただいた。集会のテーマは「間伐」であった。
 話題提供者からは、御多分にもれず、現今の林業事情を反映したきびしい話から、間伐でできることの原点、新しい可能性を示唆する話まで面白く話を聞かせていただいた。木を透かす、という作業内容には変わりはないが、間伐のもつ意味が時代によって変わるようだ。考えてみると、間伐も他の森林施業と同じようにどのような森林に育てるかという目標があって、その目標に向けて人手を加えることである。その目標が今の時代には、木材生産から多様な機能の発揮を期待する森林生態系の管理にまで広がったのであろうか。実際の施業でも目標達成の手段としての間伐の意味を明確にしていく必要を感じた。
 これまで、ややもすれば、間伐に限らず施業の話は林分内の技術論にとどまることが多かったが、今回の話題提供には県レベル、事業レベルの地理的に広い領域の話があり、たいへん参考になった。私達の分野で、こうした広い領域の施業をあつかうことも必要であると私は考えている。これからは、森林生態系の管理を含め、森林、農地、草地などを含む景観(ランドスケープ)の管理も重要になり、この景観管理のひとつの姿が流域管理だろう、との考えからである。現在進められている流域管理システムよりさらに広がった縦割り行政を超えた景観の管理で、換言すれば、地域生態系の管理である。すぐそこまではいかなくても、こうした地域全体を視野に入れた中で、森林の管理、施業はどうあるべきかの議論を森林施業研究会で進めていただければと願っている。

森林施業を巡る堂々巡り
 酒井 敦(森林総研・四国)

 森林総研の参加者が年々少なくなるという事務局のつぶやきを聞きつつ参加しました。この研究会の前に、テーマ別セッション「生物相の保全と森林の生態的管理」にも参加していました。両方聞いて考えたのですが、私たちが何か施業の研究をはじめるとき、まず理想とする森林を思い浮かべ、あれこれ知恵を出してそれに近づけようとするわけです。ところが、そうして造成した森林が成熟するころには、かつて理想としていた森林がその時代に受け入れられなくなっているケースがままあると思います。これは言うまでもなく時代の価値観の変化に林木の成長が追いつかないためですが、拡大造林はその最たる例といえるでしょう。その時代の人達は大変な誠意と使命感を持ってこの大事業を成し遂げたのだと思います。天然更新施業も更新技術の目途がついたころには切る場所がないという笑えない話もあります。ひるがえって現代を見てみると様々な施業方法が提唱されています。「複層林施業」「育成天然林施業」「混交林施業」そして「持続可能な施業」_。これらの施業大系が百年後の世界にどれだけ受け入れられているのだろうかと思うと予想もできませんが、なぜか胸騒ぎを覚えます。百年後の世界に受け入れられなくても二百年後の世界にうけいれられればいいのかもしれませんが。何が言いたいかというと、施業の研究はそういった時代の価値観に翻弄される危うさがつきまとうだろうということなのです。その危うさを少しでも取り除くためには、極端な統一政策を改めることと、時流に流されないことが必要であろうと思います。
 今回は間伐の話でしたが、いぶきの白川さんの話は異様な迫力がありました。やはり私達研究者や行政の方は、仕事で林業のことをあつかっているといっても、どこか他人事なのです。客観的な視点ももちろん必要だと思います。しかし、自分で山を持って(いぶきの場合はちょっと違いますが)自分らで生計を立てていこうとする方の熱意にはかないません。施業研究会も研究所や行政の人だけでなく、山持ちさんをメンバーに加え、話を聞いていけばますます活性化するのではないでしょうか。

森林施業研究会シンポジウムに参加して
 戸田 正和(愛媛県主席改良指導員)

 森林施業研究会シンポジウムで間伐を取り上げるということで、興味津々で参加した。 林業普及指導の現場で感じていることとは異なった視点で見たことを聞くことができ、大いに参考になりました。しかし、若干気になった点がありましたので、挙げておきますと、
1.「除伐」「切り捨て間伐」など保育を目的とした施業と「収入間伐」「高齢級間伐」など収入を目的とした施業を同じ土俵に上げて論じている。
2.当県のような小規模分散型所有形態の民有林においては、間伐林分の選木では、間伐率はおおむね定めるものの、立木の質と位置を重視して行われています。さらに、これに経営が絡んでくると、収入を増やすため間伐率を高くしたり、市場価値の高い木を選んで伐採する「なすび伐り」も行われます。このような中で、今更、定量間伐や列状間伐について検討する必要があるのか。などです。
 さらに、人工林を適正に管理するための間伐の役割を研究されて、現場に普及していただきたいと思います。

シンポジウムへの不満−何を持って林業に貢献出来るのか?−
 塚原 正之(信州大学 農学部森林科学)

 今回は学会に初めて参加させていただき、また研修会においては現場の方々や研究者の方々の意見を聞くことができ、将来林業、林学の道に進もうと思っている自分の大きな参考になったのではないかと感じています。
 間伐が行われないことによる、手後れ林分の増加は深刻な問題になっていますが、今回の研究集会においてはこの状況を打破すべく、研究者の立場からの意見提言を沢山お聞きできると思い、はりきって参加させていただきました。この研究会の中で、参考になる意見を聞かせていただいた反面、また、疑問となる所も感じたのも事実です。それは今回発表された研究内容が、果たして今回の研究会の趣旨に合致していたのかという点です、これらの研究内容が将来間伐の技術的側面において一つの方向性を示しているという点ではその目的に合っているのではないかと感じますが、今回は、まず、林業のおかれている現状打破としての社会的側面を持った意見提言を中心とすべきではなかったでしょうか。なによりも現在、林業のおかれている、現状に対して、大学が、研究所が、研究者がどのようなサポートしていくのか、今、間伐促進の為に研究者が行わなければいけない事はなんなのかという、いわば原点の討論なしには,このような問題の解決はありえないのではないかと感じます。

森林施業研究会に参加して日本林業の現実を知る?
 杉森 由子(宇都宮大学 森林生態・育林学研究室)

 色々な視点から見た森林施業について、毎回色々な発表が行われています。参加する度に色々な刺激を受け、その度に森林施業について考えさせられます。今回もそんな刺激を受けたくて、この研究会に参加しました。
 今回のテーマは"間伐"。しかし、間伐についてというより、日本の林業の現実をつきつけられたようなショックがありました。間伐材の販売価格の低下、間伐材の低質化、後継者問題など、間伐についての問題点は本を読んで知ってはいましたが、あまり実感としてはありませんでした。「いぶき」の方のお話は、現場の方からのメッセージという感じで、問題の深刻さがヒシヒシと伝わってきました。特に、「林業をやっているのに林業について真剣に考えている人がいない。」といわれた時は、将来、日本の林業はどうなってしまうのだろうと不安になりました。
 討論会では、行政、研究者、現場と色々な立場の方々から、様々な質問・意見がでていました。皆さん、それぞれの役割があり、それぞれの立場から意見を述べていらしたと思います。
 討論を聞いていて、研究成果を現場で実行する難しさ、行政と研究機関との意志の疎通の難しさを感じました。そして、このような集会を通じて、様々な立場の人々による意見交換が必要であると強く感じました。
 研究集会が終わったとき、日本の林業に対する将来への不安感はだいぶ消えていました。熱い討論を聞いていて、みんなのこの思いを他の人々に広めていけば、日本の林業の未来も少しは明るいのではないだろうかと思ったのです。これからは、様々な分野の方々に集会に参加してもらうことにより、お互いに刺激をしあい、林業について真剣に考えることのできる人が一人でも多くなることを祈っています。

森林施業研究会に出席して
 金澤 弘行(高知県山林局)

 森林総研の大住さんから、行政の立場から間伐についての問題点と推進方策について、整理し、森林施業研究会で話をしてほしいとの話がありました。

 間伐の推進は、森林を育成していく上で欠くことのできないものであり、高知県においても、これまでに様々な取組をしてきたところです。これを機会に、これまでの取組と今後の方向について、改めて間伐について考えることができました。

 間伐を巡る問題点については、結局の所、材価の低迷により、ある程度の林齢となっても森林所有者が負担金を出さないと間伐ができないというところにあるように思います。負担金を出すくらいなら、間伐を見合わせようかという森林所有者の行動様式があり、これに対しては、森林組合などが負担金を出してもらう努力をするか、あるいは負担金を取らなくてすむ(できれば間伐材の販売代金を所有者に還元する)ように生産費の低コスト化に努力するかの手だてを講じるかという選択肢になると考えます。選択肢の前者に関しては不在村者など森林・林業に関心と示さない者などに対してはほとんど効力がなく、結局は後者をどれだけ実現できるかで間伐が進む、進まないの分かれ目となると思います。

 これまで、路網整備、間伐実施・機械施設に対する助成などが行われていますが、それでもなかなか厳しい状況となっています。

 一方、VI〜VII齢級以上にもなると、立派な素材として間伐材が市場にでてくるわけですが、これからは利用間伐が進めば進むほど、材は市場にでてくるわけで、材価の低迷が続くという事態も予想されます。木材の利用量の拡大も併せていく必要があり、間伐問題は、森林整備の問題だけにとどまらない課題となるのではないかと思います。

 これらの課題にぎりぎりまでチャレンジすること、あるいはモデル事例を作り出すことが、オーソドックスではありますが、当面の行政の仕事ではないかと考えています。

 また、試験研究のテーマにはなじみにくいのかもわかりませんが、間伐のコストや推進体制(担い手を含む)についての事例調査やその分析などを行い、さらに、将来の森林整備の担い手の問題に踏み込んだものが少ないように思います。 



学びて思わざれば、すなわち、危うし!
 金指 あや子(森林総研・生物機能開発部)

異なるスタンス
 研究、行政、さらに実際の森林施業に携わる第3セクターと、それぞれの立場の4人から「間伐」をめぐる話題提供があった。それぞれのスタンスの違いは、その方の所属場所としての立場の違いではなく、視点の違いに明らかに現れていた。
 植物の種多様性と林床の表土流出に注目して間伐の効果を論じた清野さんに対して、間伐理論を展開された玉井先生や、高知県の金澤さん、山崎さんらの報告は用材生産の効率性に視点がおかれていたといえる。どちらがいいというのではない。どちらからのアプローチも重要である。しかし、「間伐」という具体的に絞られたテーマであったにもかかわらず、スタンスの異なるそれぞれの論点に接点が見つからないまま終わった感は否めない。

「いぶき」の目指す山づくりとは?
 一方、実際に森林施業を精力的に行っている第3セクター「いぶき」の白川さんの話は、ある意味で大変面白かった。赤字は税金で補填することを前提に山の手入れをするという経営(?)方針は、これからの森林管理の一つの方向を示すものだろう。もう林業だけでは森林管理はやっていけない、山を守るためには税金を投入してでも手入れを行う意義があるという話は、なかなかインパクトのある話だった。しかし、実のところ肝心な部分、何のために施業を行っているか、ということがイマイチはっきりしなかった。

答えは出ているのか
 当然のことかもしれないが、おらく「いぶき」は、用材生産を主目的とする林業と公益的機能重視の森林生態系管理の両者に貢献する施業を目指していて、それを一言で「山を守るため」と言うのだろう。しかし、「山を守る」という言葉は、「自然にやさしい」の類の言葉と同じで、情緒に訴えて一人歩きしがちである。「山」のどこをどう守るのか?間伐などの手入れをしたことで、山がどうなるのか?林業と生態系の維持をどのように両立させるのか?「いぶき」の白川さんには答えはすでに見えているから、あえて説明しなかったのかもしれない。間伐遅れでモヤシのように密生した木立と真っ暗で下草さえ生えない林床は、誰が見ても貧相で不健康だ。しかし、本当に答えは出ているのだろうか。その一番大切なところが、実は曖昧なままに「おはなし」だけで済まされてはいまいか。

施業研究会の限界と意義
 「施業研究会」の目標は、科学的知見を実際の森林管理という現場の技術に活かすことにあるのだと思う。経済至上主義だけでは成り立たない、かつ自然至上主義(という言葉があるかどうか知らないが)だけでも成り立たず、両者のバランスをいかにとるかを考えるところに、「施業研究」の魅力がある。半日限りの例会で議論が尽くされる訳はなく、問題提起に終始しても、その価値は十分にあると思う。しかし、研究会に出る度に私は何かある種の欲求不満を感じてしまう。それは、いくら問題提起がなされ、技術論がたたかわされたとしても、それ以外の社会的、経済的要因が大きすぎて、例えば「間伐」の遅れは何等改善されそうにないという虚しさを消すことができないからである。逆に言えば「研究会」に出ることは、襟を正してこの虚しさを味わうことでもある。そして、「研究会」は最後に恒例の渡辺先生の限りなく前向きの講話で騙されたように救われて、私はこの研究会の活動にまた期待を寄せるのだ。
 久しく思い出しもしなかった論語の言葉を、先頃、中学校で習ってきたばかりの愚娘から突然きかされ、耳に痛かった。今日のご教訓として、蛇足ながら一筆。
学びて思わざれば、すなわち、あやうし、
思いて学ばざれば、すなわち、くらし。

さらに盛り上がった前夜祭(地域世話人会)

 シンポジウム前夜,森林施業研究会全国世話人会が松山市内で開かれた。参加者は各方面から25名ほどで,渡辺代表の「林学を盛り上げ,森林を豊かに育て上げよう!」との激に,うなずく人,うなずかない人。乾杯の音頭で,S氏(林野庁研究普及課)の手が震えていたのはアル中の初期症状のためか,林野庁の苦しい胸の内か?
 森林施業研究会の今後の方針として,今年の現地検討会(合宿)を岩手・秋田で行うこと,来年も林学会に併せてシンポジウムを開催することが確認されました。

 地域世話人会の面々(60k)

<研究レポート>(約180k)
造林、緑化におけるコンテナ苗の利用
 遠藤 利明(森林総研・生産技術部)

今年の現地検討会(合宿)のお知らせ

第2回目の現地検討会(合宿)を10月初旬,紅葉真っ盛りの東北で予定しています。テーマは「林内放牧とブナの天然更新−牛は林業機械になりうるのか?!−」「長伐期を秋田のスギ天然林で考える」です。合宿は,同時に代表の渡辺定元氏が提唱する「持続的森林経営」の講習会も兼ねています。今年から受講した人には,初級持続的森林管理士(非公認)が氏より認定されます。東北地方の林業関係者には,多数参加して頂きたいと考えます。合宿では,また,参加者からの話題提供を受けて討議する研究交流も行なわれます。実践的な森林管理のための理論と技術を身につける絶好の機会です。なお,今回の現地検討会(合宿)は,東北の地域世話人である秋田県林業技術センターの澤田智志さんと森林総研東北支所の正木隆さんが事務局となって行なわれます。仔細は次号のニューズレター(9月発行予定)でお知らせ致します。

シンポジウムの会計報告
 森林施業研究会は,明確な会員制度を取っていないため,会計は会員の自主的な寄付およびシンポジウム会場内でのカンパを御願いしています。今回のシンポジウム会場では,総額11,394円のカンパが寄せられました。こうしたお金は,研究会の会計に繰り込まれ,会の運営,通信その他の事務経費に使われます。ありがとうございました。

<編集後記>
 森林施業研究会シンポジウム終了後,すぐさま久万町,石鎚山を経由して高知市に向かった。学会中,二三の人から高知県知事の橋本大二郎氏に対する批判めいたことを聞かされた。橋本知事が「高知の林業は駄目だ」と言っているというのである。橋本知事の真意のほどは判らないが,わずか3日間ではあるが,高知県の山を見て歩いての感想は,「こうした林業のあり方は,やはり駄目なのではないか」というものであった。石鎚山の愛媛よりのモミ・ツガ混じりのブナ林は,四国にもこんなりっぱな自然林が残されているのかと驚かされた。しかし,一歩,高知側に入るとスギ・ヒノキの人工林が尾根にまで迫り,急峻な山腹から深い谷底まで続いている。こうした状況は,翌日,四万十川を遡る中でも,翌々日,魚梁瀬スギを見に行く道すがらも同じであった。深い谷底から天を仰ぐようにして尾根を望んでも,そこにはスギ,ヒノキの人工林が連なり,人々は谷底の狭い平地に身を寄せるように集落を形成し,耕地を耕している。よくもまあ,こうした急峻な地形に,天井まで木を植えたものだと,感心するやら,驚くやらで,とりわけ雨の多い高知県で土砂災害の危険性は無いのだろうかと考え込んでしまう。施業のための路網の整備や高性能機械の導入といっても,無理なのではないか?もはや環境保全の上でも,経営経済性の上でも,林業を行う範囲を逸脱しているように思えるのは,所詮は旅行者の目なのだろうか?
 今年3月の林野庁の大幅な組織再編のなかで,日本三大美林の一つである魚梁瀬スギを管理してきた営林署が廃止された。ダムの湖岸の高台にある集落は,営林署を中心に成り立っていたが,その中から営林署が静かに消え去ろうとしてとしている。かっての炭坑労働者の住宅のように,無人化した官舎群の背後に連なる広大な人工林をだれが管理して行くのだろうか?
 魚梁瀬の貯木場には,いまでも樹齢300年を超えるスギが巨体を横たえていた。


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『林業の消滅危機→林学の消滅危機→森林との結びつき』 −現代の価値観の逆転する中で−
島根県林業管理課専技スタッフ 太田 耕一
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